これ誰の言葉だ!?
>セリーナ・ヴァンダーウッドセン!!
うそ~、マジで~!!セリーナって誰~?
ヴァンダービルト家の別荘に愛の(後に幻想の)逃避行中に、暇になり過ぎたセリーナ。溜まらずネイトに電話したら、書棚の「老人と海」をみるように言われて一言。
「へミングウェイよりフィッツジェラルド派」
と、つっこみ満載なところがゴシップ・ガール。。。
驚くべきか、至って普通のことなのかは分からないけれど、ゴシップ・ガールの世界では、登場人物が少なくとも「グレート・ギャツビー」を読んだことがあるという前提がある。2010年代の人たちが観るドラマなのにね、しかもティーン向けの、結構すごいことだと思う。
フィッツジェラルドについては、日本語では村上春樹さんの本でしか知らないままだった。しかも、短編や「グレート・ギャツビー」、「夜はやさし」という作品は村上春樹さん以外の方の翻訳で読んだりしていたので、フィッツジェラルド像というものについて、かなり曖昧な感じだったのです。どこか悲劇的だけれど、その才能と今の時代の再評価が、すべてを帳消しにしているような感じでした。
どちらかと言うと、フィッツジェラルドの生き方も含めて肯定したい気持ちも心の中にありました。
どちらかと言うと、フィッツジェラルドの生き方も含めて肯定したい気持ちも心の中にありました。
それが、エスクァイアに掲載された昔の記事を読んで、少しフィッツジェラルド観が変わったのと、割と受け入れやすいものになりました。「エスクァイア」の創刊者である、アーノルド・ギングリッチが、作家と実際に付き合いのあった編集者として、友人としてフィッツジェラルドとヘミングウェイのことを記事にしてくれています。親しみをこめて、彼らのことをスコット、アーネストと呼んでいます。(面白いのは、この記事の翻訳をしているのは村上春樹さんでした。この人は自分やりたいこと、とことんやる人ですね)
ここから、引用です。
ここから、引用です。
スコットはある種の人々が不健康であることに喜びを覚えるものと同じように自らの不幸を楽しむという、奇妙な、ほとんど神秘的ともいうべきケルト人的性向を持っていた。そして味わったばかりの敗北や来たるべき敗北の不可避を自分自身に対してドラマタイズすることを好んだ。
彼の人生に何かしらの問題があるとき、といってもいつだって、全世界がやわらかい「かき」のように彼の手中にあったあのロング・アイランド時代やリヴィエラ時代でさえ、そこには何かしらの問題があったのだが、彼にとってそれは全てが台なしであることを意味していたし、その台なしであることを自ら楽しんでいるようにも見えた。その問題は恒久的に正気に戻ろうとして果たせなかったゼルダの悲劇であってもよかったし、スコッティーが14のとしに軽はずみに悪い友人とつきあったり、あるいはスコットが読むようにと選んで与えた本に対して望むような的確で素早い反応ができなかったといったささいな失敗であってもよかった。(中略)彼はこのような完璧主義者だったので、通常の人々が気にもかけないような細かい美点や挫折を実際以上に誇張する傾向があった。
きっと、そうだったのだろう。フィッツジェラルドの小説には、その文章の美しさをとっても人の心を惹きつけるものがあるし、同時にストーリーを追っていくと、物語とともに心を消耗させるようなところもある。個人的には「リッチ・ボーイ」などを読んでいると、徐々に文章の美しさよりも、内容の、登場人物の人生への痛々しさのようなものが突き刺さってくる。これは、小説なんだから、と割り切れない「何か」がそこにはある。
彼の文章などは才能だと思っていたけれど、才能だけを受け取るなんて、安易な現実はないのかもしれない。結局、彼の人生が悲劇的だったのではなく、彼は自分自身の中に悲劇性を持ち合わせていたのだろう。
結局、自分の人生は自分で良くしていくんだ、と決めました。巨大な才能に恵まれることも、そうでないことも、幸せになり、成功するには決定的な要因ではないということです。
高校生くらいの頃に「リッチ・ボーイ」を読んで、フィッツジェラルドにかかったら自分の人生など3行程度でまとめられてしまうのではないか!?とその卓越した客観性と観察眼と文章力と説得性に口がきけなくなる位に目を回したものだけれど、過度に悲劇的にならなければ、人生というものは捨てたものではない、というのが生きてきた自分なりの結論です。(ビートルズのラバー・ソウルを聴き終えたときにも、完璧過ぎて言葉が見つからない、ということもあった)
彼の文章などは才能だと思っていたけれど、才能だけを受け取るなんて、安易な現実はないのかもしれない。結局、彼の人生が悲劇的だったのではなく、彼は自分自身の中に悲劇性を持ち合わせていたのだろう。
結局、自分の人生は自分で良くしていくんだ、と決めました。巨大な才能に恵まれることも、そうでないことも、幸せになり、成功するには決定的な要因ではないということです。
高校生くらいの頃に「リッチ・ボーイ」を読んで、フィッツジェラルドにかかったら自分の人生など3行程度でまとめられてしまうのではないか!?とその卓越した客観性と観察眼と文章力と説得性に口がきけなくなる位に目を回したものだけれど、過度に悲劇的にならなければ、人生というものは捨てたものではない、というのが生きてきた自分なりの結論です。(ビートルズのラバー・ソウルを聴き終えたときにも、完璧過ぎて言葉が見つからない、ということもあった)
彼がもし数々の自己啓発書が溢れ、このように軽々と安易な情報を発信出来、過度な精神分析が発達した2012年に生きていたら、どうだっただろう?それでも彼ほどの才能があったならば、やはり数々の挫折や美点を普通の人以上に捉えて、人生の悲しみと喜びを流麗な文章に乗せて、物語として表現することをやめなかっただろう。
もっと過度にさえなっていたかもしれない。ジョン・ガリアーノみたいだな。
もっと過度にさえなっていたかもしれない。ジョン・ガリアーノみたいだな。
彼の生き方から学べるものがあるとすれば、ときに、人は自己を改善しようと試みて奮闘するけれど、自己を受け入れて、それを才能として開花させる方法があるのかもしれない。才能が先か、自己を受け入れるのが先か、それは分からない。だから大いに悩む。
ただ、現代人がフィッツジェラルドから学んだのは、時に、登場人物が幸福になってしまったら、物語というものは終わってしまうことがあるということ。加えて、ある種の停滞や崩壊の過程が人の心を惹きつけるということ。それを体現し、地で生きてしまったのがフィッツジェラルド本人だったのだろうけど、彼と同じように生きていくことは不可能に近い。
なので、代わりにゴシップ・ガールの登場人物たちが、どたばたやっててくれます。セリーナはずっと成長しないし、ブレアの価値観は高校生の頃からほとんど変わっていきません。舞台装置だけが変わって、彼女たちは自分の人生にコミットすることはありません。ずっと、ゴシップ・ガール劇場を繰り広げるのです。
彼女たちが自立した立派な大人になった瞬間に物語は終わってしまうのです。
彼女たちが自立した立派な大人になった瞬間に物語は終わってしまうのです。
ゴシップ・ガールはそろそろ終了のようなので、徐々に、自分で自分をスポイルしてしまう生き方から軌道修正してゆくのかな、とも思います。話には結末がやってくるものですから。もう、高校生じゃないしね。
話しの筋とは全く関係ないけれど、そんなとき、お金持ちは良いなあ~と思ってしまいます。
話しの筋とは全く関係ないけれど、そんなとき、お金持ちは良いなあ~と思ってしまいます。
少なくとも自分は悲劇的な生き方を選択しないよう、毎日のちょっとしたことに感謝して生きていこうと思います。でも、セリーナって将来、何になるのかね?パリス・ヒルトンみたく生きていくかな?
40歳でそんなことやりたいですか?
40歳でそんなことやりたいですか?