うだうだ言われるくらいなら、自分で何とかしたほうがマシだ、と思うことがある。ニルヴァーナはそういうすべてを解決してくれた。そして一人一人の人生を振り返るきっかけにもなっている。
インタビューの終りになるまで、カートは自分の好きな音楽を流さなかった。PJ Harveyの最新アルバム、the Shaggs、チベット僧の詠唱。朝日がくらい窓を照らしはじめたころ、わたしとカートはついにフランクに話せるようになっていた。
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「女の子が産まれてよかったよ」とカートは言った。「男の子は乱暴で粗野だからね」と。テープで沈黙が流れる。空の空気が流れる音がする。そしてわたしの声が流れてくる、ソフトに震えながら。「ええ、わたしも女の子が欲しいわ」。
カートは20年前の春に自ら命を絶った。Spin誌にわたしのインタビュー「The Confessions of Kurt Cobain」(カート・コンバーンの告白)が掲載されて半年後のことだった。当時の担当編集者が、シアトルにあるカートの自宅で身元不明の遺体が発見された、という報告を受けたとき、わたしはすぐに何が起こったのかを理解した。
その後の何ヶ月かで、わたしは自分の人生を前に進めようとした。カートが人生の苦痛の中に居ながら、家族を得ることを信じることができたのであれば、わたしも同じことができるはずだ。わたしはロッカーのボーイフレンドと結婚し、妊娠した。中古のベビーベッドと格安のバンパーパッドも出に入れた。ベイビーシャワーのダンスパーティーは夜中まで続いた。
娘のアビーは1995年の11月に産まれた。そのころには、グランジは終焉を迎えていた。カートの死は彼の音楽だけでなくシアトルの音楽シーン全体に暗い影響を与えていた。わたしは荒々しい音楽よりも、赤ん坊をなだめるフォークソングを流すようにした。わたしはカートのレコードをかけることはなかった。幸せな娘に自ら命を絶つ行為について説明したくなどなかったのだ。
それでもアビーはどこかでNirvanaをみつけてきた。アビーが8歳になるまでに、わたしは離婚し、アビーと暮らすようになった。彼女のベッドルームからグランジの音が漏れてくるようになった。アビーは今や両親の離婚という痛みを知っている。わたしがかつてカートの音楽に自分の怒りと反乱を重ねていたように、同じことをしているのではないかと思った。
近頃、アビーはかつてのグランジ・ルックのレプリカを着ている。わたしにeBayで買わせたヴィンテージの Doc Martens まで履いて徹底している。彼女は友だちと「Petal War」というバンドを組んでいる。アビーはドラムで友だちがギター、オリジナルの曲も書いている。バンドがWFMUラジオの「Minor Music」に取り上げられたとき、アビーはインタビューで影響をうけた一人にカートをあげていた。
アビーは18歳になった。わたしは52歳になり、もう成長した。最近になってVogueで取り上げていた写真に遭遇した。2001年のファッションページでグランジカップルの象徴を取り上げていたのだ。
写真の中で赤ん坊を抱いているカートをみると、あのシアトルの邸宅へと、若き青年のもとへ、混乱を抱えた若きわたしへ、何よりすべてが待ち受けていたあの頃にわたしは連れ戻された。とりわけ、カートは父親になったことに驚いているようだったが、よろこんでそれを受け入れているようだったのだ。