MUSIC: カート・コバーンに会った話 その1

有名人のエピソードをちょっと離れた角度からみた記事が好きで読んでしまう。US VOGUEにかつてカート・コバーンにインタビューをしたことのある作家が、その20年後になった今、記事を書いていて読んでしまった。

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Photo credit: barnigomez via VisualHunt / CC BY

 「Nvermaind」が世に出た1991年、わたしは29歳でブルックリンにある3部屋のアパートメントに住んでいた。中古特売店でそろえたカウチと宗教を皮肉ったアートがあるような部屋だ。

 

わたしはグランジ・ガールのユニフォームであるフローラルのミニドレス、ブラックタイツ、ドクターメーティンという格好をしていた。巨大な赤ん坊のような格好だったかもしれないが、わたしには反抗を感じさせてくれた。わたしは「Smells Like Teen Spirit」のビデオに出てくるパンクロックのチアリーダーのようになりたかった。シャワーを浴びながらTeen Spritの歌詞を歌ったものだ「I feel stupid, and contagious. . . .」と。

 

カート・コバーンのように、わたしは永遠の思春期に閉じ込められたように感じていた。明らかに少女時代の終りを迎えているのに、前に進むことができなかった。

 

カートはしばしばインタビューで両親の離婚にともなういきどころのない痛みについて話していた。わたしの父は、わたしが大学を卒業する週末に母を置いて出て行った。母は父が大学院にいるわたしのもとを訪れている間に、離婚書類を持ってきた。

 

自分の人生に起こるたくさんのことがはかないものだと感じていたが、そのときカートのように、わたしはプロフェッショナルとしての変革を経験した。たとえそれがとてもささやかなものであったとしてもだ。

 

わたしの2冊目の小説「Suicide Blonde」が多くの評価とちょっとした売上をみせたのだ。20代の大半を小説を書きながらテーブルを待つことに費やしたが、今やわたしは新しい役割を果たそうとしていた。ちょっとした有名作家としてニューヨークの文学パーティに招待され、すばらしい雑誌の仕事を与えられた。

 

Spinがわたしにカート・コバーンへのインタビューを依頼した1993年は「In Utero」がリリースされる前の年だったが、わたしは緊張した。「Nevermind」は1,000万枚ちかくの売上を記録していたし、カートは名声の頂点にいて、彼の生の純粋なちからは音楽とファッションの世界を彼のもとに引き寄せていた。トレーラーパークで成長した自称「バックウッド・フリーク」は後光の指すロックンロールのゴッドになっていた。

 

1993年7月、シアトルまで飛び、ホテルでカートの関係者からの電話を待っていた。午後のミーティングの予定が、夕方前になりディナーへと変わった。そしてとうとう夜10時なってバンドPRから「カートの準備ができたよ」と連絡があった。

 

カート・コバーンに会った話 その2へつづく。