MUSIC: Diplo かく語りき その2

どうにかこうにかDiploのつくる音楽もショーも人を熱狂させるけれど深みがあるのかは不明だ。それでもこのインタビューを読むと、彼はとても頭がよいし、自分のやっていることを分かっている。アーティストとしての感性はあるのだろうけど、むちゃくちゃではなく、仕事として音楽をつくることができる。アーティストというものをふつうの人とかけ離れて捉えてしまうと陥る錯覚は彼にはなく、ただ自分のスタンスを保ちながら仕事をしているのが良いと思ってしまった。

Diplo
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あなたの売れそうなものを探しているようにも見えます。ジャスティン・ビーバーにはどのようにアプローチしたのですか?「Where Are Ü Now」の前に彼はそれほどクールなことをやっていませんでしたよね?

ひとつ理解してもらわなきゃならないのは、音楽業界は評論業界とはちがうことだね。評論家たちはなにがトレンドか、なにが起こっているのかについて話をするけれど、音楽をつくるということはトレンドでもありそこから外れていたりもする。重要なのはなんだろうとリスペクトを示すことだよ。

何年かまえにジャスティン・ビーバーに会ったんだよ。Ariel Rechtshaid とThought of You っていうレコードをプロデュースするためなんだけどね。 マネージャーのスクーターは何年も知っていた。Kelisのマネ ージャーをしてたんだよ。 当時からリスペクトを払ってくれていたし、 とても良くしてくれたよ。 だからいつも手の届く範囲の付き合いをしていたんだ。ヴォーカルを探していたときに、おれを信頼してくれたんだよ。単純なことさ。ジャスティンはどん底だった、プレスから、刑務所から、アワードでまずいところを見せてしまうとかさ。そんな感じでうまくいっていなかったんだよ。注目もしていなかったけれど、クールなかんじではないってのはしっていたよ。スクリレックスのリブランドも手伝おうとしたね。ほかにやることないならさ、ジャスティンとの仕事が一番だって思った。すばらしいレコードになるだろうし、みんなビビるくらいのものになるだろうとね。みんながっかりするのさ、混乱もするだろうね、「なんでこのレコードが好きなんだろう?」ってね。

キャリアをスタートさせたはじめの日から、みんなおれをプロデューサーなんだって目でみているが分かったよ。そしていつもそこに留めておこうとしていた。おれが批判のターゲットになるのは、そこら辺が理由なんじゃないかな。実際にはどこにも属していないんだ。

おれがレコードをつくる。ジャスティン・ビーバーがクールだと思わせるようなレコードで、みんながダンスするようなレコードだ。これってものすごく難しいことなんだけれどね、でもみんな音楽ってなんなんだろう?って考えると思うよ。

ドライで分かりやすいものかっていうとそうでもなく、クールなときもあるしそうじゃないときもある。よい音楽はよい音楽になる。好きではないかもしれないけれど、好きだったりもする。

ある程度、あなたは自分の意に反した仕事もしますよね。Twitterでもですか?

まえほどTwitter でくだらないことにはならなくなったよ。10年もの間、Twitterなんて冗談みたいなもんだと思っていたけれど、今やみんなのニュースソースなんだよな。テイラー・スウィフトみたいなポップスターと友だちになったとしてもさ、そんな連中がおれのTwitterをみて影響されるなんれ想像もしていなかったよね。

自分が記録したものを軽くみていたことに気がついてさ、そこからだよね、ビデオ、ショー、アートワークなんかを素晴らしいものにして音楽に全力を注ぐことにしたんだ。Twitter上でくだらない感情をいだくことで、みんな音楽を真剣に受け止めなくなるんだ。

ローカルシーンに対する考え方もおおきく変わりましたね。

ニューヨークではラップサウンドとラップシーンってもんがあった。今だとみんなメンフィスのラップとかフィラデルフィアのラップのように真似しているだけだよ。

インターネットができたからね。

フェティ・ワップがニュージャージー出身だとは信じられない。おれは彼がどこの出身かなんて知らない。彼の話すことを聞いて「すげえ」って思うだけだね。今はすべてがマッシュアップされいる。どこがルーツなのかなんてわからない。お気に入りのラッパーがガーナ出身なんてことだってあるんだよ。世界は変わってしまって、型にはまったやり方なんてもんはなくなった。これはブラックミュージック、これは白人の音楽とかね。南部、北部なんてのもないし、ヨーロッパ的なんてものもないよ。そういうものは決壊してしまったんだ。おれはいつもそう言ってきたし、これがアドバンテージになるんだよ。

何年か前のインタビューで「15歳のときにアドバスターを読んだり、ゴミ漁りをしたりして、ハードコアパンクやメタルのちからでアメリカ政府を混乱に陥れようとしていた」と語っていましたが、今でもそんな気持ちはのこっていますか?

まあ、重要なことだよね。

デイトナビーチに住んでいてさ、家族はそこの出身なんだ。文化なんてものはないし、ましてやユースカルチャーなんてものはなかった。おれたちにあったのは、バーンズ・アンド・ノーブル(アメリカ最大の書店チェーン、小売店)だけだった。バーンズ・アンド・ノーブルの中にあるコーヒーショップに行って雑誌を読んだ、ハワード・ジンなんかの本もね。おれはあの時代のあのときの友だちと付き合いが今もある。

フィラデルフィアに行って、あそこのアンダーグラウンドシーンはおれが自分になるためにすごく助けになった。バルチモアでアナキスト書店をもっているCullen Stalinってやつがいて、そいつには毎年投資をしている。おれがヨーロッパにいるときにボルチモアの暴動がおこった。やつに電話をかけたよ。おれを正気にもどしてくれたね。あいつらは、おれのことをパンクロックの延長みたいなことをやっているやつだと思っている。マドンナなんかと音楽をつくっている、ゲスな田舎もんかなんかだと思っているんだ。やつらにとってはおれが着飾っているのなんか冗談みたいなもんだよね。そういうのは失くさないようにはしているよ。