MUSIC: Diplo かく語りき その1

Diploの音楽がものすごく好きなわけじゃないけれど、彼自身は音楽をつくり続け、世界中を旅していたるところでDJをやりライブをやりレコードとともに生の音楽を生み出しつづけている。ある種消費される音楽でもあるけれど、だいたいにおいてこのブログは興味のあることを調べて記録する目的なんで、どんな人かインタビュー読んでみている。

正直、インタビューとしてはノエル・ギャラガ―の方がものすごく面白い。

Diplo
Photo credit: globochem3x1minus1 on Visual hunt / CC BY

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ローカルDJから音楽でフルタイムの仕事をするようになるまでは、どのようなものだったのでしょうか?

今よりももっと若いころ、DJで生計を立てているやつなんて知らなかったよ。想像すらできなかった。今はキッズたちはYoutubeに音楽を投稿して、それで有名になることだってあるからね。それでさ、フィラデルフィアに居たころは何でもやったよ。9時-5時の仕事もしたし、服役軍人にちょこっと金を貸したりとか、DJとしてギグをしたりとかね。「おれは作家になるかもな、いや映画監督になるのかもな」っていう感じだったよ。現実的な目標をもてていなかった。

Hollertronixの頃の写真を見返してみると、誰もクールな格好をしていないんだ。「ヒップスター」なんていう言葉ができる前のことなんだよ。みんな、そのまま仕事に行くような格好だったり、美大から来ましたとでも言えそうな服装だよね。結局さ「ニューヨークでこのパーティをしたい、サンフランシスコでこんなパーティをしたい」っていう連中を集めたわけ。飛行機代を出してくれたし、余計なお金はかからなかった。

まあ、そういうのが軌道にのりはじめたとき、おれがしたことはあまり良くない投資をしたことだね。マッド・ディセント(インディ レコードレーベル) とか、Favela on Blast のドキュメンタリーとかに金をつかったわけだ。マッド・ディセントをやっていたっていうのにさ、破産するまで5年だった。毎年、給料だけで年に1,000万円〜5,000万円は支払いしていたからね。金の使い道としては最高の部類のものだったと思うけれど、当時はみんなが「いったい何をしてるんだ?」って感じだったよね。今となれば、売り込み方も身につけたわけだけどね。破産したわけだからさ、金をかせぐことをはじめたんだ。そして、DJとしてツアーをしている間、どうやってレコードをつくるのかを学んだよ。これはね、もう文字通り1から10までレコードのつくりかたを学んだんだ。この10年か15年のことだよ。

今やあなたの曲はラジオで流され、DJ活動は下火になってきたようにみえます。

そういうことでもないんだよな。ただ忙しいというわけ。よく時間管理しているとは思うけれどね。今年はDiplo、Major Lazer、Jack Ü、もちろんその他のアーティストとも350のショーをやったよ。それもアフターパティー付きのやつさ。1日に2、3回はやったんじゃないかな。

そこまでやるモチベーションは何です?

モチベーションとは違うかな。仕事ってことだよ。Major Lazer のツアーをやったわけだけれど、これはマーケットに受け入れられるまでむずかしいものだった。そうだろ?

3人の男があつまって、一緒にDJをやって、音楽をつくる?よく分からないよ。Mad Decent Block Party(ディプロ主宰レーベルのフェスティバル) であれば、おれはどうにかこうにかヘッドライナーをやってフェスを意味あるものにしたしね。木曜から日曜の間に、1回、2回、3回、4回、5回、6回ってショーをやったよ。めまいがするほどだけれど、それほどわるくはなかった。

昨日は一日中プレスの相手をして、今日はこの取材が終わればスタジオにいることになっている。時間をどう使うのかってことだよ。自分の時間はその内に尽きてゆくのは分かっているからさ、できる限りのことをするんだよ。

あなたは多くの人種の人たちと仕事をしているということで、批判の対象になりやすいと話していました。

自分がどんな音楽をつくるべきかなんてわからないよね。初めてプロデュースしたのはM.I.Aで、彼女の音楽は文化的にあらゆるものの寄せあつめだったよ。ダンスホールミュージックであり、R&Bであり、パンクだった。自分たちの音楽だ、とだけ思っていたかな。「これはどういう意味だ?」なんて微塵も思わなかったね。ラッパー、ボルチモアのクラブミュージック、バイリ・ファンキなんかと仕事するのにはいい訓練の場だったんだ。2チェインズのレコードもプロデュースしたし、スクリレックスのプロジェクトも手掛けた。

ジャマイカで Popcaan と Kranium とも仕事したよ。ジャマイカに行ってショーをすると、10,000人くらいのジャマイカンから「おれたち Major Lazer のファンだぜ」って声をかけられる。K-POP のレコードもつくったよ。今、白人の音楽なんてものがあるのかね。おれはみんなに影響をあたえるし、みんなもおれに影響をあたえている。いつだって、人との関わりなんだよ。

レコード制作のアイデアはどこから湧いてくるのでしょうか、人との関わりから?

結局のところ重要なのは、おれはDJだってことだよ。あほらしいかも知れないけれど、アフリカ・バンバータみたいな連中おれのヒーローなんだ。まだ誰もやったことがないことをやったからだよね。

レッド・ツェッペリンをプレイできないと彼に言ったやつはいない。ドイツのレコード、ロック、エレクトロをミキシングして、自分でもレコードをつくった。それも今までにないようなものをね。DJプレミアもDJシャドウも好きだね。ファーサイドとかウータン・クランみたいなグループも好きだよ。中学のときに聴いていた曲たちがインスピレーションをくれるんだ。ブランド・ヌビアンのスローダウンしたギターサンプルとかね。

こう思ったもんだよ「わお、ヒップホップてのはなんでもありなんだ」。おれはダンスホールで育ったようなもんなんだよね。レンキー(Steven 'Lenky' Marsden)って名前のやつが好きでさ、Diwali riddim(ディワリリディム)をショーン・ポールのためにプロデュースしたんだよね。彼はいくつかのカルチャーをサンプリングしたんだ。インド音楽ウェスタン、ソフトロックギター、そういうものを少しずつサンプリングした。なんでもあり、そういうアイデアが大好きだったよ。だって誰が気にかけるもんかよ?こういうもんを詰め込んでさ、驚くようなものができ上がるんだよ。