なぜ、テイラー・スウィフトは世界最大のポップスターなのかを考える前に重要なことが。なぜ、メリルリンチの株のブローカーの娘がギターを手に取りソングライターとなったのか?
テイラーの親父はメリルリンチで働いていたんだって。自分の道は自分で切り開くもんだな。もちろん借りられる力は全て借りよう。
ナッシュビル、そこでアートとビジネス、加えてその二つが交差する部分についてテイラーのアプローチは形作られた。わたしが今いるのは、ナッシュビルのテイラーの家だ。ベッドルームが3室あり、部屋の中で上下二階になっており、天井が高い。街の中心から遠すぎず近過ぎず、カンバーランド川の2マイル南西に位置し、近くにはヴァンダービルド大学がある。
インテリアデザインはテイラー自身がやったというプロジェクトは完成するまでに何年もの歳月を費やした。それもうなづける。彼女の家は快適で、視覚的にもにぎやかな内装なのだ。目にする光景それぞれに装飾がほどこされている。
リビングルームの壁には金縁のフレームの写真がある。あの有名な2009年のMTVビデオアワードでのカニエ・ウエストの襲撃の写真だ。写真の下にはテイラーの手書きで「人生はちょっとしたわずらいで溢れている」と書かれている。
つまるところテイラー・スウィフトの家とは、あなたが想像するテイラー・スウィフトの住まいそのままだ。きまぐれで、空想なふける女の子の家。どんなスタイルかと言えば、「不思議の国の”シャギーシック”アリス」とでも呼べるものだろう。テイラーはゲストベッドルームの一つをみせてくれた。目玉がとび出るほどの装飾がされた壁紙と寝具があった。「ぜんぶの色をあつめたかったのよ」と彼女は言った。
テイラーは自分の家で寝ることを好む。
ツアー中でさえ彼女は自分のベッドで眠ろうとする。3つの家のうちコンサート会場から最も近い家を選び、コンサートが終わるとプライベートジェットで自分の家に向かうのだ。「そんなにわるいコンサートじゃなかったわ」彼女は無表情に口にした。テイラーの公のイメージからは想像できないだろうが、彼女はとても愉快だ。彼女は辛辣で、機知に富んだユーモアを持ち合わせている。
わたしは昨晩のコンサートで隣に座っていた奇妙な男について話した。彼は40代に入った頃合いで「Taylor Swift」ピンバッジをつけた「Taylor Swift」Tシャツを着ていた。自分は一人で来ていてこのコンサートのためにオクラホマからナッシュビルまで車を走らせてきたという。彼はコンサートを全て携帯電話で記録し、全ての曲の全ての歌詞の一語一語を不気味に口ずさんでいた。「彼の方こそ、わたしのビデオのどこかに写ってるんじゃないかな」とテイラーは言った。
(ミュージック・ロウはナッシュビルにあるミュージック産業の本拠地の名称)
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テイラーがミュージック・ロウを初めて訪れたのは11歳のときだった。
当時スウィフト一家はレディングの近く、ペンシルベニア州のワイオミッシングで暮らしていた。そこで11エーカーのクリスマスツリー農場をセカンドビジネスとして所有していた。(テイラーの父親はメリルリンチで働いており、株のブローカーとして成功していた)テイラーは両親がリアン・ライムスのアルバムをプレゼントする前の何年も前、11歳のときにすでにカントリーミュージックを見つけていた。11歳のときテイラーは春休みのあいだに自分をナッシュビルに連れていくよう母親を説得した。そして彼女はカラオケパフォーマンスを収録したデモCDをたずさえてミュージック・ロウを訪問出来たのだった。
2004年、テイラー14歳のとき彼女はナッシュビルの Sony/ATV とのソングライティング契約を結んだ。それ以来、彼女はミュージック・ロウの歴史でもっとも若いプロのソングライターでありつづけている。1年後、テイラーはドリームワークス ナッシュビルレコードの重役であった Scott Borchetta による駆け出しのレコードレーベルである Big Machine と契約しファーストデビューアルバム「Taylor Swift」をリリースした。
2006年10月のことだった。
テイラーの歌に詰め込まれていたのは、シェビートラック、ベッドでのお祈り、網戸を叩く音であり、それがディキシーなまりのゆっくりとした、ペンシルベニアでは身につけることができなかったであろうアクセントで歌われていた。
北部から南部へとやってきた者には長い伝統がある。
北部からやってきたミュージシャンたちはカウボーイブーツに足をつめ込み、「g」のアクセントを落とし、自分のキャリアを始めるか、やり直すためにナッシュビルに直行する。カントリースターのアラン・ジャクソンはその現象を1994年のヒット曲「Gone Country」で風刺した。シェリル・クロウやダリアス・ラッカーといったナッシュビルへと移住してきたものたちから、近年でもその傾向はみてとれる。
ナッシュビル。ヒップホップに支配された時代でもっともギターベースのポップロックを受け入れてくれる場所だ。
テイラーが辿った道のりは、これまでと同じようなありきたりの道だというかも知れない。
事実、彼女はおとり商法的戦略で、カントリーミュージックという土壌に根をはり、ポップへと変遷している。アルバムごとに、彼女のゆるやかな母音は早くなっている。バイオリンとマンドリンを強調したミックスにするか、そうでなければ、それらの楽器はまったく使わなくなった。
テイラーのヒット曲「You Belong With Me」(2008)と「We Are Never Ever Getting Back Together」(2012)で比べてみよう。
「You Belong With Me」(2008)はカントリー訛りのパワーポップソングだ。バンジョーは押し寄せるギターの中でも際立っている。テイラーは南部人であるかのような音づくりをしている(彼女が“typical Tuesday night.”と歌うところを聴いてみて欲しい)。
一方で「We Are Never Ever Getting Back Together」(2012)ははティーンエイジャー向けのバブルガムポップの曲だ。テイラーはコミカルなセリフと話し方を加え、流行の最先端を行くバレー・ガールのアクセントで歌う。そこには田舎者の痕跡は見当たらない。
グッバイ、南部訛り。ハロー、ヴォーカル・フライ。
(ヴォーカル・フライは現代の米国の若い女性の間で流行している最近「喉を鳴らす」という話し方 )