最近になって、ようやくバズ・ラーマン監督の映画グレート・ギャッツビーを観た。
音楽はJay-Zだし、どうなることやらと身構えていたけれど、これが良かった!
何度も何度も本で原作を読んでも自分の中に描けなかったギャッツビー邸。そこで繰り広げられるらんちき騒ぎ。それがこの映画を通すと届いてくる。
Photo credit: torbakhopper via VisualHunt.com / CC BY-ND
ギャッツビー邸はまるで本当のお城のようで、毎日花火が打ち上げられる。トム・ブキャナンとギャッツビー愛しのデイジーもバッキンガム宮殿のようなお城に住んでいる。
トムが愛人のマートルを囲っているニューヨークのマンションは原色に彩られた内装で、登場人物はそれに劣らぬ服装できめて登場する。
デイジーは少したれ目だけれど、華やかさを一身にまとって、パーティーの世界を生きるにふさわしいいでたちで登場する。
パーティーで流れる音楽にはヒップホップもある。もちろん1920年代にヒップホップなんてものはない。しかしながら、現代のわれわれがギャッツビー邸のパーティーを想像するとき、ヒップホップは必須なのだ。ギャッツビーのスケールを描く際ためにひつような要素なのだ。もしくはJay-Zの音楽が必要なのだ。現代の大規模コンサートを想像してみて欲しい。コーチェラ・フェスティバルを毎日開催しているのがギャッツビーなのだ。ただただ、デイジー・ブキャナンが遊びにきてくれるのを待ちわびて。
物語のスケールのほかにも、映画ではじめて頷ける場面があった。
ストーリーはだいたい分かっているのだけれど、デイジーがギャッツビーとの関係について夫のトムへきわどい返答をしなければいけない場面で、とっさに「街に行きたい」だとか、「今日は暑い」だとか言う場面が出てくる。
原作で読んでいたときに、ぼくはその心の動きがリアルに感じとれなかった。この映画版を通すと、ああ、あれは”デイジーの優柔不断さそのもの”だったのだなと分かる。
結局のところ金持ちで甘やかされて育ったトム・ブキャナンとデイジーは自分たちに都合の良いときのみしか人間関係を築くことができない。そういう部分も描いている話だとは分かりつつも、本で読んだだけでは感じ取ることができなかった。おそらく、自分がもっと人というものを理想化して、軽い言葉で逃げてしまうなんてあり得ないと思っていたからだろう。
デイジーはかわいいけれど、深みがどこまであるのか不明だ。
それはわるいことではないとは思う。ただ、すこしだけさびしいだけだ。時代がいつになっても同じ人たちはそこかしこに存在する。
最後にギャッツビーはデイジーの夫であるトムの不倫相手であるマートルの旦那に撃たれて命を落とすのだけれど(それも実際は誤解であって、ギャッツビーはデイジーのしたことを引き受けただけだ)、そこで「さすがレオナルド・ディカプリオ!!!」と声に出したくなってしまった。
彼はギャッツビーとして息を引き取る様までも、どこまでも美しかった。これが御伽噺なのだと分かりつつも、すこしだけ現実の自分を重ねられる程度にスクリーンとこちら側をつなげてしまう。
デイジーとトムは知らぬ顔をするためにシカゴへ引っ越してしまう。レオナルド・ディカプリオ演じるギャッツビーの存在はそのときにいっそう際立った。人間くささと優雅さを哀しさを同居させて終幕へと観る人の心を連れていってくれる存在感があるのだ。
グレート・ギャッツビーのいいところは、だめだと分かっていても恋した女性にすべてを捧げるところにある。誰しもがそうしたい、たとえ周りからどれだけ愚かだと言われようとも。そんな自己一致と、現実のはかなさをアメリカ文化の華やかさがくるんでくれるので、いつまでも夢を見続けることができるお伽噺なのだと思った。けど、恋したら突っ走ることくらい、誰にでもありますよね(笑)
10年後にまた映画でリメイクされて欲しい。